四方山超特急

私は大学生。就活に生きる大学生。

好きな映画ランキング

1位 インターステラー

2位 バックトゥザフューチャー

3位 大脱走

4位 ラ・ラ・ランド

5位 (500日の)サマー

6位 オールドボーイ

7位 ソーシャルネットワーク

8位 セッション

9位 シン・ゴジラ

10位 14人の怒れる男

 

10位 ディスカッションのすばらしさ、14人に一部の無駄もない脚本の妙を見せられた。真実にたどり着こうとする姿勢はとても尊い

9位 うんこ量産機と化していた日本の映画産業が可能性を見出した傑作。ゴジラを題材に、その宿命である天災に立ち向かう日本と日本人をよく描いた。

8位 高みを目指すまでの狂気を描いた傑作。

7位 見せ方、編集技術は屈指だと思う。何が面白いのか説明するのは非常に困難だが、

6位 韓国映画独特の気味の悪さが日本原作の漫画を大傑作映画に昇華させた好例。邦画でこのクオリティ(主にグロテスクさ)を作り出すのは困難ではないだろうか。

5位 無情にフラれた経験を持つ男なら誰しもが共感を持てる映画なのではないだろうか。女というのはかくも薄情で、身勝手で、それでいて魅力的なのである。

4位 夢を叶えるためには何かを犠牲にしなくてはならない。犠牲にした未来は夢でしか見ることができない。2つの夢を描いた傑作。傑作と呼ばれたセッションの次作で前作を超えてしまう監督の才能を垣間見た。

3位 愉快痛快。3時間の大長編のくせに一切の無駄なし。個人的にはボートでのゆったりした独瑞国境突破が大好き。

2位 エンタテイメントの高み。それ以外に語る必要があるのだろうか。

1位 ”時間”という概念の残酷さ。

映画とテーマ

ここ数日、世で評価の高い映画の数々を適当に総覧しながら、「名作の条件とはなんであろうか」という問いに想いをめぐらして来た

 

*あくまで、「ぼくのかんがえるさいきょうのえいが」の範疇であることは了承されたい*

 

その中で行き着いた1つの仮説がある

「あるテーマを視聴者に問いかけること」

 

テーマは普遍的であればあればあるほど良いが、そうでなくても現代の抱える何らかの問題に鋭利に切り込んでいれば、より強力である

 

テーマについて、明確な答えを提示することは好ましくない。「0か100か」のテーマなどそもそも面白くなるはずもないし、視聴者が答えを解釈する行為はとても尊い。作り手と受け手のとっての双方向のメディアになりうる。

 

ところで、、残念ながら上記の条件を満たさない名画はたくさんある。

思いつくのはアクション、ホラー、サスペンス、そして群像劇だ。

アクション、ホラー、サスペンスについては説明するまでもなかろう。シナリオに求められる水準が違う。

ストーリーの破綻さえなければ合格の脚本として許される。

群像劇については後記に託したい。

ララランド

映像作品における音楽の重要性は極めて高い

 

楽曲のクオリティはシーンの魅力を更に上のレベルへと昇華させる

視覚・聴覚に強く刻まれた記憶はしっかり余韻として視聴後も残っていく

 

幼児や老人の写真のバックに小田和正が流れれば、ささやかな幸せを愛おしく思えるし、

腕まくりした土建屋さんの映像と共に中島みゆきが流れれば、困難に打ち勝つ強い男たちの物語に目頭を熱くするだろう

 

ララランド、楽曲のメロディラインや挿入のタイミング、テーマのアレンジなど音楽面で魅了されすぎてシナリオについて冷静な評価ができないでいる

 

ララランド、素晴らしい

人生ゲーム

型にはまった生き方に憧れつつも、それを忌避してきた。

ギリギリまで自分の進路は決定したくなかった。今もそうだ。

働き、金を貯め、車を、家を買い、結婚し、子供を授かり、育て、自身は老いて、いずれ死に至る

という人生ゲームのレールから外れたくはないが、それで終わるのか、という物足りない感覚もある。

人生に飽きてくるということ

「自分は何のために生きているのか」

 

普遍的なテーマである。

飽食の時代に時間を持て余した人間は上から下まで論理ゲームを志向するようになった。

明日を生きることに精一杯だった時代にはおよそたどり着かなかった疑問であろう。

明日への不安から生じるストレスより、メンタルへの悪影響は大きいかもしれない。

 

一つの解がある。

「社会貢献のためである。」

自身の所属する社会集団のためにその身(財)を投資することこそがニンゲンの存在意義である。社会集団の領域は集落単位(核家族単位のための労働は含まない)から地球上すべての人間にまで及ぶ。

なぜ、社会集団のためにはたらかなければならな

人生は加速する

人の体感速度は細胞分裂を繰り返すたびに、齢を追うごとに加速していくそうだ。

 

いまだに大学時代に未練を残している僕に見向きもせず、多くの同輩たちはただひたすら前を見つめて人生を駆け上っていく。

 

時代の流れに必死に抗おうとするけれど、気持ちばかりが留まるだけで、時代の濁流はひたすらこの身を押し流していく。

 

持ち前のポテンシャルで必死に(気楽に?)人生ゲームを進めていくタフな同輩たちはあらゆるSNSツールで自己喧伝を行う。

 

はて、人生のうっぷんを、何か満たされないもやもやを誰かに打ち明けたいけれど、発信ツールを持ち合わせない僕のような”沈黙の負け犬たち”は案外多いのかもしれない。

 

ただ、華やかでバイタリティ溢れる彼らには見せられるものではないけれど、ネットでさまよう誰かに見てもらいたいという小さな願望もあることは事実である。

 

このブログはそんな、矮小で傲慢な、けれどささやかな自己顕示欲を満たそうとする目的で再開しようかという、そういう代物なのである。